【1】 Calma Water Club

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a month ago

僕は鮎がすきだ。小学3年の時に、福井の親戚が僕らを乗せたままジムニーで土手を駆け下りて、九頭竜川の鮎をつかみ取りして遊ばせてくれた。それを晩飯で食わしてくれた時のことだ。興味はあるが、どうして食べてよいか解らぬ僕に、はじめて、魚の骨をさけて鮎の肝や身だけをたべるすべをおしえてくれた。その時に鮎が好きになり、特別な魚になった。

鮎という魚は綺麗な川の代名詞になっている。それはこの魚が川底の岩に生息する苔を食べている珍しい魚だからだ。水の流れがなくよどんだ汚い水で、苔が汚れていれば餌を無くして息絶えるか、汚れた水、汚い苔を摂取して何とか生き延び不味い鮎になるしかない。鮎が居ない事は汚れた川の象徴であり、清らかに流れる川の象徴は鮎なのだと推測する。事実、美しい水と苔をはんで大きく育った鮎はかくべつなのだ。

 

清流のある場所というのは、それだけ山が雨を濾過して川に出してくれているという事実なので自然が深い。鮎を捕りに行くというのは、そういう自然に足を踏み入れると言うことだ。

トラックに荷物を投げ込んで、暑くなった車内に乗り込む。

川を横目に窓を開け、音楽を聴きながら山道をかっ飛ばして目的地へ。

今日は、どのポイントにいこうかと、荷台に載せた友達や、犬をサイドミラーで確認しながら木漏れ日のくねくね道をすり抜けていく。

サイドブレーキを引くと今日の猟場だ。

仲間と装備を担ぎ、犬を放し、無人の川にうきうきしながら降りていく。

ラムネのように透き通った水と、輝く苔、黒く濡れた岩肌、光を通して揺らめく木の葉をみると、幸福感なのか開放感なのか胸のすく思いだ。

ヤスを片手に、ダイビングマスクを顔に装着。

水中をのぞき込むと、そこはまるで天然の水族館である。

透明度が高いと言うことは、水中で川の断面を見渡すことが出来るということ。そこには、鮎、アマゴ、オイカワ、カワムツ、ハヤ、ムギツク、ヨシノボリ、ウグイなど、生息している場所まではっきり解るほどよく見える。

水際に、音を立てぬように近づき、目当ての魚に導かれるように、熱をため込んだ体を水中に滑り込ませるとひやりとした水が体をひやしてくれる。

陸の音は消え水の世界の音に変わる。

魚を突くというのが目的だが、捕れなくてもいい。窮屈なマスクを外したときに感じる開放感や、水中からあがり、陸にもどると広がる山の景観、体を伝う真水のここちよさ。この全ての行程がすばらしく豊かなのだ。

 

鮎を捕ると言うことはそういう世界の住人になるということ。飽き飽きした人間社会はお休みして、不自由で、この上なく清らかで原始的な行為に、細胞を呼び覚まし本能全開で没頭する。鮎を追う行為に正解などない。鮎の逃げかたは、無限なのだ。死にものぐるいで逃げまくる、最高にすばしっこい魚を如何にして物にするか。

「予定調和のカケラもない」この瞬間だけの行為が心からすきである。

魚が欲しいだけではない。

美しい、感覚がそこにはある。

 

 


毎年、8月の終わりになると、お気に入りの川の鮎突きが解禁になる。この日までは鮎をヤスで突くことは禁止されている。ほとんどの川で鮎を突くことは禁止されているというのに、この川では9月以降は遊漁券(2500円)を購入すれば自由にとっていい。

2015年からここ4年、毎年鮎突きを教えている。写真はその時の様子。興味がある人は連絡ください一緒に遊びましょう。